余命がおそらく一ヶ月かもしれない祖母に会いに行った。もう長らくあってなかったし、完全にボケてしまったと聴いていたから会うまで全然悲しくなかった。ボケると周囲の人は大変なのは分かっているけど、死の苦しみや病気の辛さから開放されるのではあればボケるということは決して本人にとっては不幸ではなくある意味幸せなのかもなって思ってたからある意味魂はもうゆっくり消えていってしまって残ったのは残留思念みたいな考え方だったんだけど、インフルエンザになって死にかけて治ったけど、もうご飯は食べられず、点滴のみで栄養をとっている祖母は、前よりボケが治っている状態のようで、ぼんやりとしていたけど意思の疎通ができる感じで、自分たちの事もなんとなく分かっている感じだった。歯が抜けてしまっているので何を言っているかはわからないのだけど、嬉しそうだった。こんなに意思疎通ができてると余計悲しくなってしまう。いつもそうだけど、こういう風になって初めてもっと会いに行けばよかっただとか、色々と都合の良いことを考えてしまう。なんだか去り難くけど、語りかける言葉も見つからず、眼の前で泣くのをこらえて不器用な感じにニコニコしてたけど俺以外の家族は語りかけたけど殆ど喋ることもせず、元気になってね、とかしか言えなかった。もうこれで会うのは最後だろうな、とか義務的に会いに行った感じだったけどそれがとても後ろめたかった。人間いつかは死ぬけど、悲しみがつきまとうのは辛い。父方の祖母ももう96歳。いまのところそういう病気になって、とかは聞かないけどさすがにもうずっと長くはないだろう。こちらの祖母も完全にボケてる。けどさ、もうだから悲しくないだろうなとは思えなくなってしまった。あと10年経てば父・母ともに70代~80代。いずれ亡くなってしまうのだよなぁ、それも自分が今まで行きてきた年数よりは多分短い年月で。一応孝行はできているつもりだと自負しているけれど、後悔しないようになるべく多くの言葉を交わしたり、なんらかの形で愛情や感謝を伝えるようにしたいなって改めて思った感じ。死ななくてもボケる可能性は十分あるしね。